本田宗一郎『やりたいことをやれ』第一章 まず第一歩を
私は以前から本田宗一郎氏の『技術者魂』が好きだ。
我が家の本棚には、PHP研究所出版 本田宗一郎氏のご著書『やりたいことをやれ』がある。
改めて、手に取って読んでみると、本当に奥が深い言葉の数々に心打たれる。
ホンダと言えば、1962年に本田技研工業によって建設された鈴鹿サーキットが有名であるが、本田宗一郎氏は、自身の拠点を鈴鹿に決めた時のエピソードをこのように綴っている。
オートバイの量産工場を探していた本田宗一郎氏は、数々の候補地にどうも納得がいかなかったそうだ。
愛知県の某市を訪れた時も、工場の話が後回しになるという的を得ない過剰な接待を受けて呆れかえったそうである。
そんな中、鈴鹿を訪ねた折、茶渋1杯という接待を受けたのだった。
そこには、茶菓子のひとつも無かったそうだ。
余計なものがない、くだらない接待を受けない鈴鹿という場所を見て本田宗一郎氏は即断即決で工場誘致を決めたのだった。
私は、若い時からどうも技術者に好かれる傾向があった。
そんなこともあってか、私自身も技術者が好きなのだ。
本田宗一郎氏の微塵たりともブレない技術者魂は、この言葉に集約されている。
「人間の幸福を技術によって具現化するという技術者の使命が私の哲学であり、誇りです。」
この哲学こそが、本田宗一郎氏が伝説の技術者、経営者になった由縁であると私は思うのである。
そして、私は、この言葉にも共感するのだ。
「総理大臣というのは偉いんだが、総理大臣の役目を果たさなきゃ偉くないんだ。」
この言葉は、企業のトップに対しても同じ言葉が言えるのではないだろうか。
多くの経営者の悩みの種というのは、『資金繰り』であると思う。
そのことについても、本田宗一郎氏は力強い答えを与えてくれている。
本田技研創立の頃は、まだ資金繰りも厳しく、焼けただれた機械を再生するところから始めたのだった。
また、ピストン・リングを作っていた頃は、分析用の器具を買う資金がなく、そこでもまた同氏独特の機転を利かせる。
なんと、それを製作している工場に通って、分析用の器具の作り方をそっくりそのまま学んで器具そのものを自分自身で作ってしまったそうだ。
この発想の転換は人間として本当に素晴らしいと思うし、そんな男らしい姿を目の当たりにしたら、惚れっぽい私のことだ・・・きっと一瞬で恋に落ちてしまったのではないかと思う・・・
もっと驚くことに、本田宗一郎氏は、工場すら自分でコンクリートで作ってしまう。
・・・が、窓ガラスがない・・・
そこで、本田宗一郎氏が何を考えたのか?
なんと、割れたガラスを何処かしこから集めてきて、釜で溶かして、ガラスすら自分で作ってしまったのだ。
資金が足りない部分を、知恵と労力で見事に乗り越えてしまった。
脱帽である・・・
現代を生きる私たちに、本田宗一郎氏のような気概はあるだろうか?
同氏の人生は、38歳で終戦を迎え、本田技研工業を設立したのが41歳であったそうだ。
それからずっと、当時の副社長であった藤沢武夫氏と一緒に『世界のホンダ』を築いたのだった。
そんな本田宗一郎氏の言葉のひとつひとつには英知が詰まっていると私は考える。
この本の第一章で私にとって一番学びが大きかったのは、『市場調査』についての記述であった。
『市場調査というのは、未来の製品を作るのに使ってはいけない。』
今までの私には、この視点は欠けていた。
同氏に言わせれば、「市場調査は、既成製品の評判を探るためには活かされる」が、「それを基に新製品を作るのはちょっと違う」ということなのだが、その発言の趣旨はこうである。
「大衆の知恵は、決して『創意』など持っていないのである」
大衆は、作家ではなく、単なる批評家に過ぎない。
「作家である企業家が、自分でアイディアを考えずに、大衆にそれを求めたら、もう作家ではなくなるのである。」
私は、この言葉にガツンとやられた思いがしたのだった。
この一文を引用すれば、私自身も「作家」の立場に近い。
何故なら、現時点ですでに私はクリエイターであるからだ。
であれば、私は大衆の市場調査の結果に右往左往している場合ではない。
私自身の世界観を独自にクリエイトする必要がある。
そんな気付きとともに、私は本田宗一郎氏の言霊を深くかみしめた・・・
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